浜崎あゆみと滅びの美学

京都にて八重桜

 最近浜崎あゆみのアルバム「Guilty」を聴いています。とても素敵に思い、何故惹かれるのか考えていたら色々と思い出すことがありました。
 以前、日本特有の価値観として「滅びの美学」があるとどこかの文書で読んだことがあります。敗者を美しく散る花に例えるなど、負け滅びるものを尊ぶ考え方です。その文書は「フランダースの犬」という物語が日本人に好まれる事に、この美学が深く関係しているというような内容だったと思います。欧米などでは滅びに対してあまり価値を見出さないようで、敗北すなわち死を意味したり、惨めで情けないものとして認識される傾向にあるようです。
 浜崎あゆみの歌詞、旋律にもこの美学が随所に感じられます。とりわけファーストアルバム「A Song for ××」は極めて儚げで衝撃を受けたのを今でも覚えています。生傷に触れるような痛々しさ、触れれば全て崩れ落ちてしまいそうな、今振り返ればそんな印象でした。その当時は何だか解らずに吸い込まれるようにして聴いていて、気付けば泣き果てるほど感動を受けていました。
 私はこの「滅びの美学」という価値観に非常に共感し、それを愛してもいます。そして私はそれを音楽に対して求めていることにも気付きました。私の音楽の志向は「滅び」にある、これははっきり自覚できました。